読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

読まなかった日記

(w)rite/(c)ompile or (d)ismiss

それを「下書き」と呼ぶなかれ

a.

自分が使うインターネットサービスで「こうだといいんじゃないの」と思ったことが、「こう」は実装されないことがある。たとえばブックマークはブックマークだけではなく「どういう文脈でそれが気になったのか」というコンテキストそのものを残せればいいんじゃないの(今となっては「はてなまとめ」のようなものがあるけど)、と思って、以前日記に執拗にそのことを書いていた。

文章が下手なのもあるがなかなかブックマーカーには理解されなかった。他の人にとってはコンテキストというのはネットに置くのではなく、どうやら「頭で処理する」ものらしい、というのが、結論になった。

話が平行線を辿ったのも当然だった。「頭」=「情報処理のスキーム」というのが出来ている人にとって、情報とは空中に手をかざすくらいの労力で指先にからみついてくるものなのだけど、「はてブは文脈が残せたらいいのに」というのは、頭が気の毒でかざす手すらない立場の人間が言ってることなのだから。

逆に、手がある人から手がない人へ、突き放した言い方で言うなら「確かに、自分の頭のありようを決めながら使うようには、できてないね。そういう、自分がなんであるかみたいな勉強は、インターネットに来る前にしておくべきだね」となる。

自分が何であるかということを決められている人にとって、インターネットは宝の山だが、そうでない人にとっては distracting の一言で片付けられるしかない、時間つぶしの道具になる。梅田望夫(さん)はおそらくそのことを知って敢えて後者を無視し前者だけを語ったが、その言葉に焚きつけられたのはだいたい後者のできそこないのほうであった。梅田さんとしては、情報処理偏差値55の人間を60にすることができれば、社会は変わるだろうしこれからはそうなるのだ、と思いたかったのかも知れない。しかしニホンのインターネットには偏差値60以上と偏差値50の世界しかなく、焚きつけられた出来損ないたちは、偏差値60の手前の暗い断層で足をすべらせていった。毎朝新聞もろくに読まない人がReadItLaterを活用して情報収集、なんてことを真に受けて実践しようとして今日もその谷間に落ちていく(わたしもその一人だ)。その亡骸で、はてブのトップページが作られている。[English][Lifehack][ネタ]、これらタグがお前の墓碑銘となるだろう。

b.

ブログにしたって、何の専門性も持たず、アウトプットのスキームもはっきりしていない(ものを書く訓練を受けていない)人には、パブリッシュして人に問う前に、書いて形を整えながら自分に問う、というフェーズが必要だ。気の毒なことだが、すらすらとおもしろエントリが書けるほうが異常だし。

気の毒なほうの人達が、そうやって自分に問うているときのテキストは、人に見せてはいけない「下書き」なのだろうか? というのが、私の疑問だった。世間ではチラ裏に書けと言われていることは、本当に人が見るようなものではないのだろうか。

今でもまだ疑問に思っているので、ときどきこういう寝言を書いたりする。 http://ex-fragments.tumblr.com/about

進めて言うなら、下書きとパブリッシュされたエントリを分ける必要があるように感じるのは、Web社会の言質とりという歴史的事情に負うところが大きいのであって、「ブログのエントリには責任を持たなければいけませんね」なんてきいたふうなことを言って、ブログのエントリとはクオリティが高くあるべきものなのだ、と主張する人は、その歴史的事情を忘れている(あるいは知らないふりをしている)のではないだろうか。

過去、インターネッツでは、「あなたはここでこう言った、そこに私はこう答えた」と、言質をとりあいながら喧嘩をする、ハードな事態が何度もあった。そこに「書いたことは削除せず保管されなければならない」という要請があった。

その要請の下で開発された仕組みを使って、ブロガーが記事を書いている。下書きは公開されず、公開した記事にはコメントやトラックバックがつく。「下書きは人に見せず、パブリッシュされたエントリは勝手に直さない」のが当然になったのは、ひとつの歴史の産物にすぎない。

大半のブロガー見習いは、こんご言質の取り合いをすることなどなさそうなのに、その歴史的事情を当然のものとしてブログを書こうとする。インターネッツをサバイブした歴戦のおっさんたちの要請による仕組みの上で「議論」をするのがブログだ、くらいに思わされているのではないか。

昔、(いまでもそうなのかもしれないけど)日記書きの間で紛争が勃発すると、書かれたことは消せないという建前の下、「これは事実誤認でした」「これは言い過ぎでした」という釈明を過去のテキストに添えたり、strikeやらdelやらのタグで文言をこねくり回したり、していたものだ。それで書き手同士は満足したかもしれないが、後に残るのは、当事者すら後で二度と読みたくない、糞みたいな枝葉や注釈のついたテキストであった。

ちょっと考えてみてほしい。そうやってテキストをこねくりまわすことの、そもそもの目的は、「不正なく喧嘩する」ことではなく、「合意をつくる」ということだった筈だ。

エントリ未満のアイデアの投入のような形で、自分も書いて確かめている途中のテキストが、もっとあってもよさそうなものだ。人も見てよい、フィードバック貰いながら足したり直したりする、という状態のテキストが。

エントリを生煮えの状態でネットに晒すと「ちゃんと言及相手を書いてくださいね」「議論が残る形にしてください」などと言われる。本当にそうなのだろうか?

たとえば、あなたの日記に書かれたことは、私が書いたことのきっかけにはなったかも知れない。でも、こっちだって随時考えながら書いてるわけで、最初からあなたに「あなたのXに対して私はYと思ってるのです」と提示する持論を持っているわけじゃないのだ。最初はなんだって、よくわかんないけど、なんか違う気がするから一言口をはさんでみた、ということだろう。

ならば、それを一緒に発掘しましょう、というのが筋であって、これは議論とかそういうもの未満のはなしじゃないのかね。このテキストは私とあなたのやりとりの中で叩いて変えて構わないし共同作業するくらいの気持ちなのに、「議論」だと。ハッ。

ブロガー同士の見解が対立したとき、やすーく持ち出されるときの「議論のルール」とは、さらにそれ以下の意味しかない。「相手が不明瞭なことを書きにくくする」ようするに「ぐだぐだ寝言を言うなよ」というこを守らせるため、黙らせるための単なるハードルじゃないのか。

議論にすることで、それであなたは、自分の何が守られると思ってるのだ。ハードなプロトコルにのっとった「議論」とは、頭のできあがった人同士がやることなのに、なぜ頭ができてもない我々がそれを気にするのか。

自分の考えたことをすらすらと書けない同士が、「議論」などというものを真似しようとするのは、滑稽じゃないか。

(ほかに喩えるなら、PHPで危ないプログラムを書いて置いてる奴は死ね派と、勉強なんだからとりあえず公開してやってみろ派の、前提の異なる対立みたいなものだ。そして私は後者に与する。与するというか前者は後者が立っている場所をじゅうぶん理解していないんじゃないかね、と思う。素敵なことに、web日記にちょっと自分のアイデアを殴り書きしたところで、それでCookieが盗まれたりはしない。web日記は、腐れPHPスクリプトを公開する以上の気安さで、どんどん書いていいのだ。)

c.

……しかし、日記を認(したた)めるシステムは今でも「書かれたことは消せない」という15年前の建前を掲げ続けている。その仕組みの下で書かれた言葉のやりとりは、「議論」にならざるを得ない。

例えば、もっと早くから、エントリのURLが文書のバージョンを表現できるようになっていたら、どうなっていただろうか、と想像する。

path/to/the/entry これが最新、 path/to/the/entry/001 こう書けばスナップショットも辿れる。スナップショットは任意のタイミングで書き手の側が発行できる。「あなたあのときこう書いたがね」スナップショットに対して言質とりはお好きに、でも最新の文書は更新されますよ、コメント歓迎、どんどん直します。最新の文書を信用していただかなくても結構。そんな世界になっていたのでは。

そういった世界から自分がやってきたことにして、こっちの世界のブログの仕組みを眺める。

こっちの世界のブログは、記事ごとに公開リビジョンが管理できない。「とりあえずテキストのこの状態については、私が言ったことにしていいです」という、書き手の意図を無視して、読み手が勝手にキャプチャして言質を取るサービス、なんてのもある。なんだよ、あのメガロドンとかいうサービスの醜悪さは。

ブログの編集画面を開くと、編集途中の文書が、ひとくくりに「下書き」という箱に入れられている。書くという行為もなめられたもんだ。

「下書き」してるときが創造的なのであって、「公開」してしまったら、もうそれには興味を失っててもいいくらいのものなんじゃ、ないのだろうか?