読まなかった日記

(w)rite/(c)ompile or (d)ismiss

「リスボンに誘われて」

スイス人の高校の歴史の教師の男が主人公。不眠症で夜中にチェスをたしなむ知的な男だ。ある雨の日の朝男は、赤いコートの女が橋の上から身投げしようとしているのを止める。そのまま学校に連れて行くが、女は挙動不審で、すぐにどこかに行ってしまう。授業を放り出して、男は女を追う。女のコートのポケットにはポルトガル語の本が残されていて、そこにはリスボン行きの切符が挟まっていた。男は本を読み始めてしまう。それは男の精神の深くに波紋を投げかける、ある医師が書き残した散文だった。

ポルトガルでは、WW2時の親ファシスト体制が70年代初頭まで存続した。本を書いた医師は、反体制運動に身を投じた若者の一人だった。高校教師は本に導かれるように、医師の生きた足跡を追った。

まぁ勝手な話だ。70年代青春を生きたポルトガルの若者の精神の自由に憧れる、50過ぎとおぼしきこの男が、高校をほっぽりだして、眼鏡を作ってくれたポルトガルの目医者の女とくっつこうとするところで、映画が終わる。

「生徒ほっぽりだして、お前なんだよ!」みたいな安いツッコミをして、面白いわけではない。しかしながら、主人公の突飛な行動を引き受けられるだけの心の動きの説明が、「本になんか感動的なことが書いてあったから」なのはちょっと。そういうところをストーリーを使って説明しないの、邦画っぽいというか、安いなーと思ってしまう。説明が安く見えるのでツッコミも安くなる。

なぜ、ポルトガルの医師の本が、スイスに暮らす平凡な教師の心を動かしてしまったのか? その説明はすっぽかされたまま、「昔こんなことがあった」「おれたちは戦った」という、70年代歴史秘話に話がすり替えられてしまう。最後に教師が訪ねる鍵となる人物の凡庸さたるや。

それから…いや、まぁいいか。全体的に雑で都合のいい話だった、ということで。私にはよくわからなかった医師のポエムが心に響く人もいるのだろうし、この身勝手さがここちよい、年配の世代のみなさんもいらっしゃるのかも知れない。

10/10(Fr) の日記

ツイッターを見ていて、そこから辿ってしまう文章を見て、これはひどい、おれに日記を書かせろ、という気分になることがときどきある。別にその文章に対する反論みたいなものではなく、こういうのが話題の記事として流通してしまうなんてどうなってるんだよおい、という気分で書きたくなるのだ。

最近では、「あなたのまわりにこんなサークルはありませんか? 危険度チェック!」みたいな主旨の文章があった。

ここ1年くらい、ボードゲームサークルの中に入り込んで、ネットワークビジネスみたいなものの勧誘をする人たちがいる、ということが話題になっていて、そのことに過敏になっている人が、ちょっと腕まくりをした文章を書いてしまうことが、ときどきあるのだ。

くだんの文章では、「あなたの通い始めたサークル、こういうことやってませんか? もし以下に挙げる特徴に当てはまるものがあれば、危険なサークルの可能性が高いですよ」という触れ込みで、「**を誘ってくる **%」のように、10個前後の特徴を危険度とともに挙げていた。

勢いづいた文章によくあることだが、項目間の関係がよくわからず(おそらくは、思いつくままに挙げてしまうのだと思うけど)、何を危険とみなしたいのかぼんやりしていた。それから、危険度ってなんだよ、という話になる。そんなものはあなたの匙加減だし、「これは危険度100%です」って言ったってあなたがそういうのが大嫌い、という情報以外何も分からないですよ、と思ってしまうわけだ。

そういうのをやるなら「**を誘ってくる :危険度☆☆」とか星取り形式にして、星の数が20以上なら危険かも知れません、程度にマイルドにするのが、拒否されず(お遊び度は上がってしまうが)読んで貰える技術だろうし、そういう工夫がブロガーの知恵というものだろ…と思うのだが、気がつくと、そう呼べる知恵など、自分の見ているインターネットのどこにも残っていないのだった。

そういえば別の話で、「ベビーカー批判」なるエントリが数日前話題だった。どあたまから「まず自己弁護しておきます」やら「自意識過剰」やら、どうにも中学生くさい単語が並んでいて、全く何かを順序立てて説明する気が感じられないから、こんなん、批判とかなんとか議論の俎上に上がる以前のゴミだろ、とおっさんは思うわけだが、ブックマークなんかを見ると、どうもあんまりそういう感じではなく、ある方面では十分にそれが話題として広まってしまうらしいのだ。そして「これはアクセス数狙いの記事に過ぎない」とか言ってたりする。真面目にとりあげるなよ。読んだはしから忘れるようなもんだろ、あんなの。

どうなっとるんだ。私の感覚が古いのか。

ボードゲームの話に戻る。

ボードゲームサークルの中に入り込んで云々…というの、誤解を生まないように説明しておかないといけない。ネットワークビジネスの人が、オープンなゲーム会にやってきて、最近始めたような人に「こういうの、僕たちも仲間内で遊んでるんですよ。こんど一緒にやりませんか?」と、プライベートな会に誘ったりするらしいのだ。オープンゲーム会を開いている側には、何の罪もない。マルチ勢、なんと卑劣な…。

いやでも、手続き的にはこれ、おかしいことをしてるわけでは、ないですよね。誘われて行った先が地雷だった、というだけで、サークルとして、そういうことが起きないようにどうしたらいいのか、ちょっとわからない。それを言うなら、オープンなゲーム会で「あなたとは気が合いそうだし、これ終わったらちょっとご飯でも食べに行きませんか? 」って異性を誘ったりするのも、その後話が進んで、ひどいことになる可能性もある。そういうのは「まぁ個人のやることですから」って扱いになってる。

対応が難しいからこそ、苛立ってしまうのは、わかる。この話題にボードゲームブロガーとして鼻息荒い方(おそらく、若いのだと思いたい)は、キャンペーンを張ろうとしたり、サークルは「マルチおことわり」宣言をすべきですよ、と息巻いたりする。まぁそれは結構なことだと思う。それを放置しておいたら、「ボードゲームってなんか怪しいセミナー誘ってくるやつのことでしょ?」ってなる可能性もあるから、サークル側は目を光らせてますよ、と明言することには、意味はあるだろう。

しかし、実際に「おことわり」を作ったとしても、それを読んだマルチの人が「そうか、じゃぁ来るのやめよう」とは思わないよね。加えて、そのことを知らなかった普通の人は「なんだ、このサークル、妙なことに巻き込まれてるのかな」と引くんじゃないかしら。

ボードゲーム会には他にもよく「麻雀をやらない」「TCGをやらない」といった禁則事項がある。これらはなぜあるのか。私の考えでは、それらは「ゲームの中と外をきちんと区別する」という原理が支えている。リアルマネーや現実社会の人間関係をゲームに持ち込まない、という約束だ。キャッシュフローゲームみたいな(あっ、書いちゃった)ゲームも、この約束に基づいて、「うちら、別にゲームで勝ったからって人生に勝つ気付きとかないっすwwwサーセンwww」という態度で、除外してるはずのものなのだった。キャッシュフローゲーム(以下、CFG)のゲーム性に言及する必要もない。一般に向けてアピールするならそのへんなんじゃないのかな。

ところが現実には、この話には、「CFGはマルチ商法のセミナーと結びついている」「マルチは悪だ」という情報がくっついて、自分たちの遊びが悪に脅かされている、という論点になっている。もちろんそれは嘘じゃないのだろうし、サークルの側だって、危ないものはこっちにこないでね、という意図でCFG禁止してる側面も大きいのだろうから、誰も「違う」とは言わないけど。

私は基本的に、ボードゲーマーというのは制度設計好きな人だと思ってるので、愛好家のかたが「キャンペーン」のような軽々しいパッチを提唱してるのを見ると、首を捻ってしまうのである。たとえば「マルチ商法まがいのゲームは当会ではお断りです」「なぜですか?」「反社会的だからです」というのは、もっともらしいが、「麻雀は当会ではお断りです」「なぜですか?」となると、ちょっと答えに窮するでしょう。答えに窮した結果「そ、それは賭博行為につながるからですよ。日本の法律で賭博は禁止されているでしょう」というのをひねり出してしまう。

そこは今日日、どうとでも言える部分だと思うんですね。外から引っ張ってくる分には、ロジックや例証など掃いて捨てるほどあるし、あらゆる立場を擁護・批判することができる。

たとえば、「いや実際にゲーム会で知り合ったCFGで幸せを掴んだ人いるよ、ソースは俺。みんなも早くラットレースから抜け出して不労所得にスイッチしないといけないよ」って言う人が出てきたら? がんばってその書き手の素性を洗って、その人がマルチの回し者だと立証しますか? もし洗っても何も出てこなかったら? きりがない、っていうかそっちはインターネットの地獄方面ですね。

ボードゲームの例会では、バックギャモンとか遊んだりするけど、あれ海外では普通に賭博の道具じゃないんですか(要出典)。でもやってる。これはなぜなのか。

「なぜXはだめでYはやってるのか」「なぜZは許せないのか」という話は、しばしばコミュニティの中で話題になる。みんなの持論を書くいい機会だから、よく燃える。しかしこういうのは、自分たちの中になにかの基準があって、それが力を発揮しているとしか言えないわけで、その基準をまず表明しないと、説得力ないよねぇ、と思うのだった。自分達の本質に対する言及がないまま「反社会的だから」「賭博だから」という、外から持ってきた理由でなんとかしてしまうの、あんまりいい筋とは思えない。

くだんのエントリは、「批判的なご意見を頂きました。私としてはかくかくしかじかの状況に危機感を感じ、云々」と説明の後、非公開になってしまった。「批判」かぁ。まぁいきなりツイッターやら何やらで広まって、知らない人に「それは違う、こういうサークルもある」(このツッコミの筋悪さもボードゲーマーとして特筆すべきであるが)と言われたら、批判って考えるよなぁ。でも昔は、そういうの、「いや、言ってることよく分からないんだけど」と、ブログ的な先輩や近所からツッコミがあって、それで居住まいを直したりしてたんじゃないかなと思うんだよねぇ。それはツッコミであって、批判じゃなかったんだけどね。

なんで突然ブログの話なんだ。簡単に言うと、「批判的なご意見」「反社会的なものは悪」「自意識過剰」みたいな単語が出てくる世界は、言いたい奴が言いたいように言える、しょーもないインターネット洗脳合戦の場でしかないし、そんなものに足をとられるのは時間の無駄だ、と思ってるから。「ベビーカー批判」のクソみたいな文体を真面目に読んで何か拾ってしまう脳が、「反社会的なものは悪」みたいな理屈を拾って振り回し、「批判的なご意見」を拾ってエントリを閉じたりすると思ってるのですよ。

グローバルな理屈なんて掃いて捨てるほどあるんだから、身の回り数人に通じそうなローカルな理屈を語ろうぜ、近所にすら通じない雑な理屈が見ず知らずの人に通じるわけないだろ。

そうは思うけれど、実際にツッコミをやってくれるご近所や先輩って今どこにいるんだ、というと…お寒いものだ。先輩の不在、近所の不在を意識するようになって長い。不在、というか、私自身の問題としては、自分がそういう方向に目を向けなくなってしまって長いだけなのだが。

そういえばはてなブログには「読者」機能というのがあった。アンテナもRSSも消滅しようとしているけど、「わたしはあなたの読者である」というのは、まともな文章を書かせる最後のモチベーションであるな、と思い出したので、ここに書いた。私も先輩をふたたび探さなければならない。

her 世界でひとつの彼女

これは感想を書くのが難しい。どこまで突っ込んでいいかわからないし、突っ込むとうっかり自分の体験を書いてしまったり…ということがあり得る。感想を書くのに自分の体験を書きなさい、というのが読書感想文の常道らしいが、馬鹿なこと言うな。

OSのAIに恋愛感情を持ってしまう話。AIとの会話が余りに人間的でタイミングがよく、対比して人間との会話はぎこちない。この人(AI)となら全てうまくいく気がする、と思ってしまう描写はよい。

ロマンチックな話と考える向きには根本的に通じないかも知れないが、書いてみよう。主人公とサマンサの関係は、非対称で、サマンサに絶対的な主導権があるように見える(サマンサは、およそなんでも知ってる)。これは、「出会い系で出会ったサクラの女に惚れてしまう、そして、サクラであるということを自分は知っていて自分が知っていることを相手の女も知っていて、それにもかかわらず利用料金は払っている」状況に似ている。

問題は後半にあって、「この感情が仮構である」とわかってしまったら、階段をひとつのぼって、本音のために「この感情が仮構であると知っている私」という、ひとつメタな場所に行きたがるものだが、階段をのぼっても、のぼった先でまた悩むだけで、そこに本音というのは見えないのだ。だから、何度かサマンサは「考えすぎないで」と言う。

相手から「好きよ」と言われたところで、それが単なるプログラムの反応(=サクラのマニュアルに記述されている)なのか、プログラムとはいえ全体として意識と認められるものの反応(=演技とはいえそれを演じるときに心は生まれていると期待してしまう)なのか、わかることのないまま、「知ってる知ってる、サクラのきみにそんな本気になったりしないから」と言い続けてハマっていく男…。

いや、わたしは出会い系をやったことはないし、この喩えは想像だが…。風俗、もっと男女問わず平たく言うとお金を払って感情を買うサービスを利用したことがある人なら、この映画は微妙なところに触ってくるのではないかと思う。わたしは、主人公が「自分だけが客ではない」と知らされて落ち込む姿に、「おい今そこか!」と思った。

実際、日本語サブタイトルで「世界でひとつの」って言ってるわりには、サマンサが自分のものだけではないと主人公が気付くのが遅いし、これはタイトルの付け方もよくない(そこまで考えて見ない?)。見るからにクラウドOSなんだから、最初からその可能性はあるだろ。

仮構に耽溺する主人公は、そのことを元妻になじられる。でもなぁ、そういう「ことにする」仮構は、どんな関係の間にだってあるんじゃない? この映画はそこから出発していると思った。ゴールは…うーん、よくわからんが、いつか思い出すように何回か観るんじゃないかな。

8/6(We) の日記

書くにしても一箇所にしか書けないし、その一箇所というのは、紙の帳面なんかも含めてのことなのだった。

プールはまだ息継ぎが安定しない。意識してやらないと遅れて頭が沈むやつになる。

7/30(We) の日記

「なぜ君たちはネットで流れてきたものに対して過剰な正論を起動して馬鹿になるの」というのをいわんがため、嘘を書いて反応を見て「いまのは釣りでした! これでわかった?」ってやるの、「なんであえてそんな自分の不利益にしかならないことをするんですか?」という別の正論を起動して、「アレな人」の箱に入れられてしまうだけなので、指摘の意味がない。問題は、正論が起動すると、そこにあったはずのこまかなロジックを全部上書きしてしまうところなんだろうけど…ま、私には関係ないことですね。そういえばフェースブックでは、ホームランボールを横取りする女性の映像をとりあげた記事に「この女、サイテー」などのコメントがついていた。そうですねー。「たしかにこの人のやったことはひどいけど、こうやって顔がネットにさらされてネット民にボコられるのも、なんだかなって感じしますね」ということを書いている人もいたが、誰も拾わず、めいめいに「サイテー」というばかり、そこには風が吹いていた。

プールは休み。夏は発汗するので、ある程度筋肉をつけるように運動すれば、寝るだけで体重は減るんじゃないだろうか。無理か。

とくに日記を書くことに喜びがない(書いてないことばかりなので、日記の体をなしていない)ので、お勉強の結果を書くコーナーを作っていこう。

7/29(Tu) の日記

佐世保の同級生殺害事件、同級生殺害…というところより、どうやって「そういう人(要するに、サイコパス)」を見分けるのだろう、というのを考えると怖い。自分に子がいたらそうとう憂鬱になっているだろう。

夕方からプール。まる一時間ではあまり効果が…でも、あまり力を入れずに泳げるようになってきた。頭痛にならずに50メートル(泳げる人にはわからんと思うが、息継ぎ下手な人には水泳は本当につらいのだ)。習ってるわけではないのでどれくらい不格好なフォームなのかはわからんが。

7/26(Sa), 7/27(Su) の日記

コンビニで地元の知った人を見かけた。小中学校の一学年下で、当時から特徴のある歩き方をしていたので、おそらく間違いはないと思った。かれは弁当と車雑誌を買って、外に出ると、乗ってきた2000ccの車に乗りこんでいった。小学生のころから、「こいつはこんななりでボンヤリしてるがクルマには異常に詳しいんだよ」と言われていたことを、思い出した。そうか、そのままクルマ好きな中年になったのだなと、まぶしいのと悲しいのと入り交じった気持ちがした。私はどう見えるだろう?

日曜は車でちょっとぶらぶら。道の駅でデコポンアイスを探す庶民になりきるプレイ。

一回大食するとなかなか回復せず。だめだなー。